城崎は木の先。

  • 2016.02.03 Wednesday
  • 08:40
おはようございます。
先日のNHK番組「ええトコ」ご覧になられましたか?
兵庫県豊岡市の主に日本海側を特集していました。
その中で城崎温泉も取り上げられていたのですが、それなりに長く住んでいる若女将達も「へぇ〜」と思わせられることがあったので、少しご紹介。


1、円山川でシジミが採れる。
まさに幸楽園と目と鼻の先の円山川でシジミが採れるそうです。
確かにボートが良く走っているとは思っていましたが、漁をしているとは思いもよらず。
シジミ汁にシジミご飯、美味しそうだったぁ…( ´Д`)



2、城崎は木の先。
城崎温泉を開拓したとされる道智上人。
その上人を祀っているのが温泉寺です。
温泉寺には十一面観世音菩薩が本尊として祀られています。



この菩薩、1本の木から作られた3体の地蔵の内の1つとされていて、木の先から作られたのが十一面観世音菩薩なんだとか。
木の先…城崎という地名になったという言われがあるそうです。


まだまだ、住んでいても知らない城崎がありそうですね。

城崎VS有馬?!その2〜城崎物語より〜

  • 2014.11.13 Thursday
  • 12:35
おはようございます。
城崎VS有馬?!その2〜城崎物語より〜です。


その後、別の医師が書いた温泉論で、有馬温泉は激賞され、名声を取り戻します。
しかし、この話、裏があるそうで、薬選を書いた医師が、
「薬選で有馬温泉を1位にしてやろうか」と持ちかけたものの、
有馬温泉の方は「有馬はすでに天下一の湯として知れ渡っている」と冷遇したため、
城崎温泉を1位にしたという…
この話も温泉論に書かれてあったようです。



どこまで本当かわかりませんが、城崎VS有馬の構図があったことは確かな様子^_^;
そして、この話が本当なら、結局城崎温泉が一番体に良いとは限らないということに…


何だか皮肉な結末ですが、今は城崎も有馬もお互い尊重し、愛されている温泉だと若女将は思っております(^ ^)

城崎VS有馬?!〜城崎物語より〜

  • 2014.11.10 Monday
  • 08:05
おはようございます。
城崎物語をちょびちょび読んでいる若女将です。
今回は城崎温泉と有馬温泉との関係についてです。



城崎温泉は奈良時代に発見されていますが、
有馬温泉は更に昔、飛鳥時代には発見されているようです。
日本書紀に書かれているくらいですから、その歴史は長いんでしょうね。


そして、江戸時代に出た温泉番付では、有馬温泉が最高位である西大関に。
歴史的にも湯の成分としても、名実ともに城崎温泉より実力のある温泉となっています。
江戸時代も、たくさんの湯治客が来られていたことでしょう。



ところが、薬選の登場で、有馬温泉は一変するのです。

薬選によると、
1、湯が高温であること
2、わずかに塩辛いこと
3、色が赤くないこと
これが良い温泉であるとしていて、この特徴にピタリと合うのが、城崎温泉だったとしています。

有馬温泉の金の湯は、赤く鉄分を含んでいますが、
薬選によると、そのような色はよろしくない、
味も塩辛く苦いので良くないとの記述があったとのこと。



この薬選により、有馬温泉は大打撃を受けるのです。
そして城崎温泉が繁栄していくのです。
ですが、この攻防はまだ続くのです。

またまた続く…

城崎温泉の成分その3〜城崎物語より〜

  • 2014.11.07 Friday
  • 07:35
おはようございます。
城崎温泉の成分その3〜城崎物語より〜です。


ちょっと没個性化してしまった城崎温泉ですが、
元々城崎温泉が有名になった背景に、学者、医者と呼ばれていた人達による宣伝があります。
城崎温泉は体に良いですよーと京阪神の人々に伝えたからだということです。


何をもって体に良いと言ったのか。
城崎温泉は奈良時代に発見されましたが、
科学的に温泉の良さを伝えられるようになったのは江戸時代に入ってから。
後藤良山、香川修徳という医者が書いた薬選という本がきっかけです。



薬選によると、
1、湯が高温であること
2、わずかに塩辛いこと
3、色が赤くないこと
これが良い温泉であるとしていて、この特徴にピタリと合うのが、城崎温泉だったという訳です。


(ついでに、城崎温泉の中でも、一の湯が一番良い湯とされていたようです)

この薬選のおかげで、城崎には湯治目当てのお客様が来るようになったのでした(^ ^)

城崎温泉の成分その2〜城崎物語より〜

  • 2014.11.04 Tuesday
  • 08:20
おはようございます。
城崎温泉の成分その2〜城崎物語より〜です。


今の城崎温泉には外湯が7つあります。
1つの泉源から湯をタンクに集め、温度調節のために低温泉を混入して、
パイプを引いて、各外湯に配湯する仕組みです。
ということは、7つの外湯の成分は全て同じなんですね。
例えば、外湯の1つ、一の湯と柳湯の成分が異なる…ということは無いんです。



でも、昔はこのようにはいきません。
城崎温泉が発見されたのは奈良時代ですから、パイプを引くなんてまず不可能です。
なので、外湯それぞれが泉源であり、泉源ごとに成分が異なる訳です。
城崎から湧き出る温泉なので、城崎の地であればどこでも一緒では?と思いがちですが、
どうもそれぞれの外湯で個性があった様子。
逆に、パイプの登場で、没個性化してしまったとも言える城崎温泉…
うーん、ちょっぴり悲しい若女将です。


さらに続く。

城崎温泉の成分その1〜城崎物語より〜

  • 2014.11.01 Saturday
  • 07:05
おはようございます。
最近、若女将は子どもが寝静まった後に、ちょびちょび読んでいる本があります。
城崎物語です。



神戸新聞に昭和50年代に掲載されたものを編集された本で、
幸楽園のロビーにあったものを若女将がパク…お借りして読書中。
なかなか進まない…というか2人の子どもがすんなり寝る日が毎度訪れる訳ではないので、
読書のペースが遅々と進まないのですが、
ゆっくりペースで、城崎について知ったことをこちらでご紹介(^ ^)



まずは、城崎温泉の成分について。
成分そのものについては、外湯にも内湯にも成分表が表示されていますので、
今更紹介することもないのです。
若女将が驚いたのは、城崎温泉の成分が今と昔で異なっていたことです。

…長くなりそうなので、続く。

またまたこの季節がやって来る。

  • 2014.09.16 Tuesday
  • 08:10
おはようございます。
またまた、やって来ました。
この季節が…


毎年10/14.15になると、城崎ではだんじり祭りが行われます。
城崎のだんじり祭りは、外湯の神様、四所神社の神輿を巡って、
台と大だんじりが喧嘩をするというストーリーです。
(だいぶ省略したストーリーなので、
詳しく知りたい方は、幸楽園ブログにて城崎だんじりで検索を…^_^;)



で、この祭りの約1ヶ月前から、
城崎のオトコどもは宿と呼ばれる集会所に毎晩集まって交流したり、
だんじり祭りに必要な物品の準備に追われたりします。
城崎の街がにわかに賑わう1ヶ月です(^ ^)


お祭り自体は約200年前から口伝されてきた由緒正しきお祭りで、
当日は見物客でいっぱいになりますが、
それまでの1ヶ月もいつもの城崎温泉とは少し雰囲気が異なったりします。
そんな城崎の歴史を、肌で感じられる貴重な1ヶ月だと若女将は思っております。


昨年はこんな姿で参加した長男イチタ。



今年はどんな姿を見せてくれるのやら^_^;

3.11、1.17だけでなく1925。その3

  • 2014.05.23 Friday
  • 08:00
おはようございます。
3.11、1.17だけでなく1925。その3です。

先日、豊岡1925が出来た話をしました。
文化財として指定されている建造物を、カフェ、ホテル、スイーツ専門店に改装された建物です。
実際には、この建造物は1934年に建てられていますが、
北但大震災に思いを寄せる意味で、あえて豊岡1925という名前にされたようです。



中は駅通りをイメージされていますが、そこにある時計は、実は動いていません。



北但大震災が起きた11:11を示したまま止まっているのです。
北但大震災は、城崎を含む豊岡市民にとって心に刻まれた出来事です。

3.11、1.17だけでなく1925。

今年の5.23にも1925に思いを馳せたい若女将です。

3.11、1.17だけでなく1925。その2

  • 2014.05.21 Wednesday
  • 08:00
おはようございます。
3.11、1.17だけでなく1925。その2です。


地震が起きてすぐに、奔走したのは当時の城崎町長、西村佐兵衛です。
町長は震災後すぐ、城崎の外湯を調べて、肩から掛けていたメガホンで生き残った町民に語ります。

「城崎町は大丈夫だ。
この湯の湧き出る限り、城崎町は発展するのだ」



かくして、城崎の復興は始まります。
まずは外湯、共同浴場を再建します。
そしてそこから、災害に強い街づくりにするため、道幅を広くします。


外湯から再建するといったところが、城崎らしいですね。
普通だったら復興住宅を先に考えそうですけれど、それだけ城崎町民にとって、外湯は希望だったのでしょう。



今の城崎の町並みは、1925年、北但大震災のあった年に作られたものです。
もう約90年前に災害に強い街づくりとして設計されていますので、
今の基準とはかけ離れたものかもしれません。
道路の幅も今の基準としては狭いですし、建物同士のすき間もなく、壁同士が密着した状態。
新たに災害に強い街づくりをするには?と協議もされているようです。



北但大震災は、城崎だけではなく、隣の旧豊岡町でも甚大な被害が出ました。
1925の合言葉は、城崎だけのものではないのです。
(つづく)

3.11、1.17だけでなく1925。その1

  • 2014.05.19 Monday
  • 07:15
おはようございます。
もうすぐ、5.23がやって来ます。
5.23というより、城崎では、1925が合言葉なんですが…
と言うと、お客様は何の話か分からないですね。

東日本大震災は3.11
阪神大震災は1.17
城崎を襲った北但大震災は、1925.5.23…



1925年5月23日、城崎を北但大震災が襲いました。
当時の最大震度である震度6。
丁度お昼時で、各旅館は昼ごはんの準備をしていました。
時代は大正時代。
観光客が来られる今の時代と違って、
傷病者の方が湯治に来られる時代です。
長期滞在される方が多く、朝晩だけでなく、昼ごはんの準備も必要だったのです。
そして、当時は女性が火を使って料理しますから、
地震で倒壊した建物はあっという間に炎に巻き込まれ、
その犠牲になったのは、ほとんどが女性でした。



死者は428名。
うち城崎では272名で人口の8%を占めていました。
またほとんどの建物も倒壊、延焼し、城崎は焼野原のような状態だったと聞きます。
きっと、城崎の人々は絶望に近い感情だったのかもしれません。
地震で交通は麻痺し、ただでさえ山と海に囲まれた城崎は、陸の孤島になっていました。
外部からの救援がなかなかたどり着けない事態に陥ったのです。


そんな中、城崎の人々は一つの希望を見ます。
地割れした土地から、湯が、湧いていたのです。
(つづく)

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